石川県七尾市にあった中世の山城(やまじろ)です。国指定史跡です。
日本城郭協会選定による「日本100名城」の一つであり日本五大山城および日本五大山岳城の一つです。
七尾湾を一望する城山(標高約300m)を中心に、7つの尾根に曲輪(くるわ)を配した大規模な山城でした。ちなみに、「七尾」の地名は、この7つの尾根に由来するともいわれています。
七尾城の歴史
能登国守護の畠山満慶(七尾畠山氏初代)が正長年間(1428~29年)ごろに築きました。
当時は砦とよんでもよい簡素な城塞で、本拠は府中(現七尾市府中)に置かれた守護所でした。
その後、七尾城はしだいに増強されて、やがて畠山氏の居城かつ能登支配の本拠となっていきました。
能登畠山氏第5代の畠山慶致のころには守護所も七尾城内に移されたといわれています。
戦国時代に入り、能登では激しい戦乱が続いたこともあって七尾城はさらに修増築され、日本有数の規模を持つ堅固な城になりました。
1576年(天正4)から翌1577年(天正5)9月にかけて、七尾城の戦いが起こりました。
織田信長の越前侵攻に危機感をつのらせた越後の上杉謙信は、信長との同盟を破棄して、幼君畠山春王丸が家督を継いだことで不安定化していた畠山氏への介入を開始しました。
謙信は1577年(天正5)、大軍をもって能登に侵攻し七尾城を攻めましたが、長続連(ちょうつぐつら)らは七尾城に籠城し、その攻勢を1年にわたって持ちこたえました。
結局、謙信の攻略を許しましたが、それは支城が落ちて七尾城が孤立したことや、城内での遊佐続光の内応から徹底抗戦を主張した長氏一族が殺害され、開城をしたことによるものだったのです。
謙信の死後、能登は織田信長によって制圧され、七尾城には信長の部将前田利家が入城しました。
しかし、山城は時代にそぐわなくなっていたため、利家は間もなく小丸山城(七尾市)に居城を移しました。
その後、七尾城には利家の子の前田利政が入城しましたが、1589年(天正17)に廃城となりました。
利家は能登に入封して間もなく小丸山城に移り、七尾の城下町(今日の七尾市街の原形)も同城付近に移りました。
こうしたこともあって、七尾城跡は市街化などの開発を免れたために、良好な状態でその遺構が残ることになったのです。
本丸跡の石垣をはじめ各曲輪の石垣などがたいへんよい状態で残っており、中世の山城を知る貴重な史跡となっています。
JR七尾線七尾駅からバスで古屋敷町下車、徒歩約60分(本丸跡)。