小丸山公園

御祓みそぎ地区にあり、七尾市民の憩いの場でもある小丸山公園は、1581(天正9)年10月に前田利家が織田信長より能登四郡を賜り、能登に入部した際に、その居城として所口、小丸山に築いた城跡です。

小丸山第1公園の「利家とまつ」の像は(第1公園の)海抜は22mの高さにあり、公園区域は30,000㎡あります(第1公園だけでは12,000㎡)。

前田利家は、もともとここにあった気多本宮神社(気多能登生国玉比古神社)を明神野(めじの)に遷し、その跡に築城しました。

築城前は、この地一帯は山の手の地続きであって円山まるやまと言っていたが、それを切割って、愛宕山、屋敷山(御貸屋山おかしややま)、西光寺山(今の第2公園)の4山にし、城を築いたといいます。

小丸山城と称したのはその後のことです。

能登を能登畠山氏が守護大名として支配していた時代は、城は現在の城山山系の七尾城跡一帯にありました。

城山の麓(現在の古屋敷町・古城町など一帯)には、重臣ら家臣の普段の屋敷である屋敷群などや商工業者からなる城下町がありました。

勿論、その当時からも海沿いの府中町などにも屋敷があり、七尾の海辺には多少港機能を利用した街並みがありました。また城のある山麓からこの府中付近の港までをつなぐ通り沿いに民家が一里も続き、当時、この七尾は全国有数の城下町の1つであったようです。

天正4年(1576)から天正5年にかけての上杉謙信の能登侵攻で、9月15日に七尾城が落城すると、能登は上杉氏の支配になりますが、翌天正6年3月謙信が急死します。

事情は急変、2転3転し、信長勢が最終的に上杉勢や旧畠山勢力を排除し、能登を勢力下に治めることになりました。

当初信長は、菅屋長頼を七尾城代として派遣しました(天正9年3月)が、8月能登一国を利家に与えました。

利家は、楽市楽座にみられる信長の領地経営に感化されたのか、山上の七尾城を不便と思い、古くからの湊のある所口の小丸山に居城を築きます(工事は天正10年正月から)。

既に小丸山下に海辺一帯には集落があったと思われるが、利家は城郭造りに合わせて、町割りなど行い城下町を整備しました。

信長の討死で事態が急変

能登入国した翌年、本能寺の変(旧歴6月2日)で信長が亡くなると事情はまたもや急変。

明智光秀に勝った羽柴秀吉が暫定的な信長の後継者となります。

利家は天正11(1582)年4月に秀吉から加賀国2郡を加増され、居城を尾山(金沢)に移しますが、小丸山はその後も前田氏の能登国支配の中心地として城代が置かれました。

七尾城代(小丸山城代)の名を列挙すると、初代は前田五郎兵衛安勝(利家の三兄)です。築城時の頃は、利家は越中の神保氏と結んだ上杉景勝と戦う日々であったので、実際の築城の督励に当たったのはこの安勝でありました。

施政面では、「初期所口(七尾)町奉行」の三輪吉宗・今井彦右衛門・大井久兵衛直泰を指揮して、築城・刀狩・開墾・課税・船や水手かこの他国流出防止などを推進しています。

安勝は上杉景勝の家臣・長景連が能登棚木城(現・能登町宇出津)を占拠すると、長連竜ちょう つらたつや富田景政とだかげまさを指揮してこれを滅ぼしています。また天正11年の佐々成政の能登侵攻に際しては、佐々軍の拠る勝山城(中能登町芹川)を子の利好とともに攻略し、利家の末守合戦の勝利に貢献したりもしています。

安勝は、利家不在の時は金沢に留守居することも多かったといいます。文禄3年9月に病没し、七尾小島の長齢寺に葬られています。

2代目城代は前田播磨守利好(安勝の子)です。

利好城代の時代、詳細は不勉強にして語れませんが、実際には利家の第二子・利政、高畠織部定吉、中川清六郎光重が守った時代もあったようです。

慶長15年2月に亡くなっております。

小丸山第1公園の満開の桜利好には子が無かったので、彼の死後は、3代目として前田修理知好(利家の三男)が城代となっています。

元和2(1616)年、知好が大坂冬の陣・夏の陣の2度とも殿しんがりを命ぜられたのが不満で京へ出奔し鞍馬山に入山してしまいます。

この時、前年(1615)の一国一城令により小丸山城は廃城となります。

以後、能登支配の職責の主要部分は、所口町(七尾町)奉行及び郡奉行所に移りました。

明治維新により廃藩置県となったが、明治4(1871)年11月七尾県が出来た際、その県庁は小丸山に置かれました。(明治5年9月に石川県に統合)

明治20年8月15日に裁判所がこの地に設置されました。その後大正7年(1918)、裁判所は山を下りて馬出町の現在の裁判所の位置に新庁舎を建てて移ります。

大正9(1920)年4月1日、七尾町役場はこの由緒深い地(小丸山城跡)の払い下げを受け、公園とし、これを小丸山公園と命名します。

利家が築城(1580)してから340年を経て小丸山は市民のものとなった訳です。

第2次大戦中は、食糧増産の至上命令のため畑となり、荒廃していました。

戦後、七尾商工会議所が音頭をとり周辺の所口、藤橋、亀山、一本杉の各町の有志と共に小丸山公園保勝会を設立。以後、保勝会は所属町数を増し拡大し、公園の再興に取り組んできました。