七尾城の歴史

七尾城は、石川県七尾市にかつて存在した山城(やまじろ)です。

日本城郭協会選定による「日本100名城」に数えられる、日本五大山城および日本五大山岳城の1つです。

七尾湾を一望する山城を中心に、7つの屋根に曲輪を配した大規模な山城でした。

七尾という地名は、城に配された7つの屋根(松尾・竹尾・梅尾・菊尾・亀尾・虎尾・龍尾)が由来になったと伝えられています。

能登国守護の畠山満慶(七尾畠山氏初代)によって正長年間(1428~29年)ごろに築かれました。

畠山氏は細川氏、斯波氏と並び「三管領」と呼ばれ、代々室町幕府の首脳を勤めるほどの名門です。

中でも畑中基国は越中・越前・能登・河内、山城、紀伊の守護を任された大大名でした。

ところが、三代将軍・足利義満の時代に、嫡男の満家でなく、その弟の満慶に家督を継ぐよう命じられました。

一旦は満慶が家督を継ぎましたが、足利義満が死去すると、ただちに兄である満家に家督を返上しています。

この恩に報いるため、兄も弟に能登守護職を譲り渡しました。

この兄弟の行いは人々に「天下の美挙」と称えられこととなり、それと同時に能登畠山氏の歴史が始まることとなりました。

満慶に与えられた能登国は、小国ながら古来より「香島津」と呼ばれ、良港・七尾を有する豊かな土地でした。

満慶自身は京で暮らし、重臣の遊佐氏を守護代として派遣、能登国の管理を任せていました。

しかし、満慶のひ孫にあたる義統の頃、応仁の乱によって京が荒廃すると、満慶は能登に移り住みます。

以降、能登畠山氏は能登にて力を蓄え、満慶から数えて七代目にあたる義総が現れてから、さらなる栄華を誇るようになります。

先代の義元、実父の慶致ともに領国内の一向一揆を鎮圧すると、七尾城の大規模な改築を進めました。

これに伴い、城下町も改められ、「千門万戸」と称えられるほどの発展を遂げることとなります。

その発展を聞きつけ、全国から文化人が七尾へと集まりました。

義総も彼らを歓迎し連歌会を催し、後に「畠山文化」と称されるに至ったといわれています。

義総の教養に感動した地元の武士も現れ、義総も彼らを掌握するため、積極的に重臣へと抜擢していきました。

中でも、温井氏には守護代家の遊佐氏と同様、場内に屋敷を与えるほど重用し、畠山氏を中心とした支配を強固なものにしていきました。

こうして能登畠山氏は、全国に名を馳せる戦国大名へと成長したのです。

しかし義総の死後、家督を継いだ義続は父の代からの重臣を遠ざけ、自らの側近を重用しだします。

これに不満と不安を覚えた温井総貞と遊佐続光は、義続に対して反乱を起こし、義続を隠居にまで追い込みます。

さらに総貞たちは、義続の嫡男である義網を畠山家氏の第9代当主とし、義網を補佐するという名目を持って「畠山七人衆」を発足させます。

しかし、それほど時を経ぬ間に七人衆のトップである温井氏と遊佐氏が対立、闘争の末、遊佐氏は左遷され温井氏が七人衆の筆頭に就きます。

以後、温井氏が一人で七人衆を統括するようになりましたが、温井氏の専横を嫌った義網に暗殺されます。

これを受けて遊佐が復帰し、事態の収拾に当たりましたが、暗殺された温井氏の子である続宗が畠山氏の庶流である晴俊を新当主に据えるべく七尾城下に押しかけてきます。

これが「弘治の内乱」です。

温井続宗の七尾城包囲は実に3年に及びましたが、七人衆の一人である長続連に活躍によって敗北しました。

この戦の後、七人衆による進言を無視し始めた畠山義網は、父である義続とともに遊佐と長によって七尾城を追放されています。

これ以降、傀儡と化した畠山当主にかわり、実権を握った重臣たちが政(まつりごと)を行うことで、七尾はいびつながらも安定し、つかの間ですが平穏な時期を迎えます。

軍神・上杉謙信による七尾侵攻

つかの間の平穏を得た七尾ですが、それも長くは続きませんでした。

戦国武将最強の1人に数えられ、後に軍神、越後の龍と称えられる上杉謙信に攻め入られたのです。

一五七六年のことです。

上杉家臣になっていた上条正繁を畠山氏の当主に据えることで、能登を奪おうと画策したのです。

百戦錬磨である謙信の巧みな戦術に翻弄された七尾城ですが、関東地方の情勢が謙信にとって不都合な情勢に傾いたのと、七尾側の健闘もあり落城はま免れています。

しかし、翌年の一五七七年、謙信は二万の兵を率いて再び七尾に攻め寄ります。

これに対し、遊佐と長は七尾城へ領民を入れ、一万五千人で籠城し、最初は優勢に戦を進めました。

しかし、城内で疫病が発生したことで兵、領民ともども士気が次第に下がっていきました。

そんな中、長だけが徹底抗戦を主張しましたが、かねてより上杉氏と交流があった遊佐が長を処刑し、降伏に踏み切ったのです。

しかし、時を同じくして、長連龍(続連の次男)が織田信長との交渉の末、大援軍を率いて七尾を目指していたのです。

この援軍が到着していれば、能登畠山氏の歴史は大きく変わっていただろうといわれています。

この戦で七尾城を手に入れた謙信も、半年後には世を去り、謙信亡き後で北陸を制した織田信長も、数年の後に本能寺で斃れることになります。

この目まぐるしい変転の後、残念ながら能登畠山氏の歴史は潰えることなりましたが、畠山氏によって生み出され、育てられた文化は、今日も七尾に脈々と受け継がれています。